ここ数日は仕事や家庭や勉強とあわただしく過ごしていました。
なんとなく気づきつつある感じというのは今もかすかに続いています。
いまだに明確なものは得られていませんが、いくつかのことに整理がついたように思います。
その一つが、自分は今自分だけの人生を歩めている、と実感できたことです。
最近、ある方が私のことを「教祖」という言い方で例えていたと聞きました。
実際にお会いした方は坊主頭のさえない中年おやじとわかるので、笑ってしまうかもしれませんね。
HPには『お祈り』や怪しげなブログ、その他疑ってかかると不信に思えるような言葉や内容もあるのかもしれません。
それらは私の至らない点です。
文字だけを追って感覚や感情などの伴わないものは経験ではなくただの知識でしかない、と最近お話しをした方から教えていただきました。
実際に今私が開業して日々経験している中で培われているもの、真摯に生きようとなにか少しでも学び深めようと施術にいらしてくださる方たちとの間で交わされている施術を通してのやりとり、真剣に生きようとしているからこそ得られるその後の改善や経過、そうしたものは実際に施術を受けていただいた方にだけわかっていただけるような気がします。
「神伝式」と表記していますが、やたらに言葉が浮かぶわけでもありませんし、施術がおもうような即時的な結果をもたらさないこともあります。
なかなか傍目から見るとわからないことはたくさんあると思います。
しかし、それは当たり前で、私だけが経験していることだからです。
いらしてくださった方だけが経験していることだからです。
その経験を言葉にしたものは、求めている方にしか伝わりません。
見ているだけの方には実体験がないため、本を読んで考えていることと同じだと思います。
「教祖」という言葉が私の経験しているものとかけ離れていることがわかるため、私は人には理解されない独自の生き方ができるようになってきたんだ、とうれしくなりました。
なぜうれしかったかといえば、自分の独自性がわかってくれば、他の方の独自性も素直に認められると考えているからです。
そうなれば、なにかと否定をして人のエネルギーを奪ったり、抑えつけて弱らせる、人からの無理解に落ち込むこともなく、加害者や被害者のようなそんな生き方をしなくて済むようになっていくと思うからです。
自分だけの真実の探求を続けていくと、どこかで孤独を感じる時がくると思います。
いまはまだそこまでも至りませんが、どんな時も見ていてくれる、この方だけがわかってくれていれば自分は納得できる、そう心底思わせてくれるのは自分についてくださっている守護霊、守護神、という方たちだと思っています。
五井先生には直接お会いしたことはありませんが、宇宙全史や書籍を通してつたわってくる感じは、守護の御神霊とはまた違う優しさやおおらかさがあると思っています。
気の合う友人や、慣れ親しんだ家族、昔からの御近所さん、仕事の同僚、様々な人たちに囲まれて生きていますが、ずっと一緒ではありませんし、大きなところか見守ってもらうという関係性でもありません。
それぞれが果たすべき課題をもって生きているからです。
死ぬまで一緒、死んでも一緒、死ぬ前から一緒、そうした存在を信じられるようになると、人目を優先することなく自分の心からの想いにしたがって強く生きられるのではないでしょうか。
まだ理解が伴なわないのですが、少し考えていたことを言葉にしてみました。