ある方とお話していて善悪についてわかりやすく教えていただく機会があり、自分なりにまとめたものを先ほどBBSにて質問させていただきました。
こちらにほぼ同じ文章を掲載しますのでよければ読んでみてください。
先日、ご自身の経験を通して身につけられたことをお話してくださる方から、善悪についてお話をきかせていただきましたので自分なりにまとめてみました。
善悪の基準とは、簡単に表現すると「力を持っているものの都合」ということでしょうか。
力を持っているものが自分の都合に合わせて力を集めようとする、もしくは人からエネルギーを奪う、剥ぎ取る時、その行為を肯定・正当化することを善と基準し、否定する者たちを悪と位置付けます。
一方的なものではなくエネルギーの交換という関係性であると、そこには感謝(祈り)があるのだと思います。
たとえば食べる、という行為において、命をいただくことを思えば感謝があるかないかということは、その行動にも表れてきます。
無駄に食い散らかすようなことも、不必要に蓄えることもしません。
それぞれが自らの本心に従い生きている中で、それでも生きていくために相手のエネルギーをいただくことが必要な段階であり、相手のエネルギーをいただくという特別なことができることを有難いといって感謝する、生かされていることに感謝する、そういうものが善悪の中にはないように思えます。
否定も肯定もしなければ悪にも善にもならないため、弱肉強食の「この地球圏」では善も悪もないということになります。
また「否定する」(人の嫌がることをする)ということが大きな点でもあり、他を認めないためエゴが出てくることになり、もしかしたらある段階での肯定(おだてる)もエゴを生むのかもしれません。
なぜ否定がエゴを生むかといえば、自分は正しい、それと違うものは間違っている、という理屈で他者を否定するからです。
自分の存在以外を対等に認めないのは、その自分だけの優位性が好きだからです。
『エル・・・・』などはそこを突き詰めて自称「神」まで上り詰めてしまいました。
いろいろ理由をつけて法律やルールが作られていきますが、罰するということにしても、本来因果応報があるところに、あえてさらに罰金や罰則を作る意味は、力のある者たちにとって都合がいいからだと思われます。
ルールを守れないことで無用な葛藤を生み、力の無い者、エネルギーの少ない者から自由(考える、気づくなども含む)を奪っているのかもしれません。
そうした罰則は力を持つもの、支配しようとする者の都合でしかなく、新たなルール作りと称して組織を作ろうとTTPやAIIBは話し合われていますが、結局その中心に位置するものの都合でしかなく、善悪を生み出す仕組みづくりでしかないのかと思いました。
競争社会、ヒエラルキー、というものも力関係で優位性を餌にエネルギーを搾取する構造でしかないと考えていいと思います。
いまこの時期は、エゴを新たに増やさない、ということが特に大事になります。
善悪の発想は人からの視線を気にすることにも通じていきます。
自分のためにやることは「がんばっている」で済ませられますが、そこに他者の評価を気にするということが混じってくると、自分のためではなく人のために頑張る、自分以上の頑張り「頑張りすぎる」ということに繋がり余計に消耗していくことになります。
つまり、無理(自分のこととして頑張れない)をしてもエゴが増えるからよくないよ、ということになってきます。
その人がやるべきことは、自分のためであればどんなにつらくてもやった方がいいとも言えるのですが、自分のことと思えないことはやるべきではなく、人のことまでやたらと手を貸したりするものではないという理屈にもなりそうです。
自分のためではないことは他者からの評価を必ずどこかで期待しているからで、それもエゴを生み出すことになると思います。
こうしたことの理解が進み実践できるようになると、エゴを増やさないようになってくるので、ここからカルマの解消への取り組みがなされていくように思います。
つまり、自分自身がカルマをベースに作られた今生ですから、自分自身のことを地道にひたすら取り組み続けることで、覚醒を目指すようなある方向性をもったカルマ解消という段階に入ると思われます。
それを選ばない方は、少しでも自分の好きな優位性を追求していきたいからその仕組みから抜け出ることを選ばず、好きで選んでいるといわれる由縁はここにあるのかと思いました。
とりあえず、自分なりに整理をつけるとこうなりました。