最近、これまで教えていただいたことが自分の中でつながり始めていたため、数人の患者さんにお話を聞いてもらいながら整理をしていました。
こちらでまとめて書こうかとも思いましたが、分けて書いていこうと思います。
土曜日に体調を崩し昨日も一日へばっていましたが、守護霊様からの肉体改造と思われる私なりの根拠の一つに、仕事に支障をきたさない、ということがあり、今日もある程度回復してしまっています。
宇宙全史のBBSに質問されているルポさんは1カ月以上不調があるため、肉体改造といっても加減は人それぞれですね。
今回体調を崩すことで、ある方からいろいろ教えていただいたことのひとつとして実感したことがありました。
「人の調子はいいときばかりではなく、むしろ良くないときのほうが多い」
というものです。
そして、自分の基準を一番いいところにもってきて、それ以下の状態のとき自分を責める人が多いとも教えていただきました。
ということは、バイオリズムの波グラフのようなものを考えていただくと分かりやすいかと思いますが、その頂点は全体の中で数%しか占めておらず、残りの90数%を常に否定する生き方をしていることになります。
生きる意欲というのは非常に大事で、子育ての光景をイメージしながら考えてみてください。
なにをやっても怒られ、責められ、否定される環境で育つ子供と、とりあえずやったことを認めてもらい、もしくは褒められて育つ子供、どちらが生き生きとするでしょうか。
前者は、自分の判断を持たなくして力のあるものに従うか、生きる意欲を無くして死に向かうか、大きく分けるとその2つになっていくようです。
周りで人が認めてくれなくても、自分を信じて生きていく、そうすることで自分の人生をよりよく生きていくケースがあると思うのですが、ある段階にいくと非情さというものを実践するためには欠かせないものではないかと想像しています。
非情さはおそらく二元性を超えた生き方だと思いますので、今の私には理解できないと考えていますが、ともかく、他の誰も認めてくれなくても最後は自分で自分を信じることが出来るにも関わらず、その自分でさえも否定し責める考え方というのは、改めれるなら改めた方がいいことではないでしょうか。
では、自分の基準をバイオリズムの好調期に合わせないでどこに合わせたらいいのか、そう考える方もいるかもしれません。
少し下げて中間点位を基準にすればそこまでストイックにはならなくて済みます。
しかし、半分は否定しながらということがやめられないかもしれません。
そこで「普」という言葉にたどりつきました。
「普段」「普通」という言葉に使われているこの文字は「あまねく」という読み方もできます。
辞書を引くと、「すべてにわたって、隅々まで」とありました。
言ってしまえばなんてことない表現ですが、いい時もわるい時もすべてを認めて生きる、という基準にすればいいのではないか。
こういう時もある、でその時できる精いっぱいをやる、でいいんだよ、とある方から教えてもいただきました。
普段とか普通という言葉の印象もずいぶん変わってくる気がします。
日常こそスペシャルという意味もなんとなくですが、分かりそうな気がしてきました。
これしかできなかった、ではなく、ここまではやれた、です。
このことは宇宙全史第一巻のカルマの章、P.448にも書かれている
『しかしそこに残る印象は「ここまでやり遂げた」という印象で決して「ここまでやり残した」印象ではないのです。』
に通じることかと思います。
無理なくそう思えるようになることは、強い思い込み(エゴ)外さないと難しいと思いますが、生きやすい生き方、という大きな基準で考えた時には参考になるかと思います。
成長を実感できているとき気分よく過ごせている人は多いはずです。
いたずらに責めたり否定しない方法を考えながら生きてみるといいようです。