以前書いたかもしれませんが、私が考えるエゴとは、自他を区別する思い込みと、その区別されたもの、です。
その区別が為されている場が、神であり、全体性であり、完全性、宇宙、様々な言い方ができるものです。
そして私たちがわかっているようでわかっていないのが、思い込みというエゴによって区切ってしまった以上、私たちは自らを部分にしてしまい、不完全なものにしたてあげているにも関わらず、万能で完璧であると思い込もうとする愚か者だ、ということだと考えています。
覚醒を果たすとは、そうした思い込みを外して本来の全体性に気づくことではないでしょうか。
その方向が地球人類の成長の方向性であり、そちらに向かい変わっていかないと世の中が次元上昇や世界移動して波動が上がっていく中で、現状維持では相対的に下降していくわけですし、形あるものはいずれ壊れていくということもありますので、大半の人類にとって生き残るためのほぼ絶対条件といえると思います。
生きる意欲がとても大事になります。
気分よく生きられたなら意欲がわきます。
ではどうしたら気分よく生きられるかといえば、覚醒を果たす方向性の中で成長を実感することです。
いたずらに自他を否定したり責めたりするのは、成長を阻害するばかりか主体性や自由や命を奪うことでもあります。
成長とは覚醒を目指すこととした場合、それを阻害しているのは思い込みというエゴであり、エゴを薄くするとは思い込みに気づいてその思い込みを変えたりなくすことです。
そうして境目に隙間ができていくことで自他の境目が無いところも現れ、全体と無理なく同調した生き方ができるようになるため、生きやすくなっていくのです。
ここで一つ大事なことは、人間一度に考えられることは一つだけ、ということ。
掛け持ちしてなにかやっているようでも、それは都度考えることを変えているだけで一度に複数のことを考えられるわけではないのです。
成長するにはその一度に一つしか考えられないという能力を使うしかないのですが、実際は過去の自分を責めたり後悔したり、幻想をいだいて未来ばかり夢見ていることが大半を占めています。
今に集注して自分がいかに成長できるかに全力を注ぐ、それを地道にこつこつと、というのではないでしょうか。
では四六時中思い込みに気づくように取り組まなくてはいけないのか、というとそうではありません。
思い込みは当たり前のこととしてあるため、普段はわからないのですが、当たり前のことからハズれた事に出くわすと人は落ち着かなくなります。
その時が思い込みに気づくチャンスであり、地道にこつこつと取り組む機会となるのです。
過去のことには手が届かない以上、その事に思いを馳せていたところでなにも成長にはつながりません。
今に集注して成長を目指すのであれば、過去の苦い経験は忘れることでできるようになるはずです。
自身の成長のために重要な今に集注しないで生きようとするということは、現状維持を選ぶことであり、それは先ほども書いたように滅びの道に足を踏み入れていくことになります。
自分よりものをわかっている人は成長を促してくれますが、そういう人の話を聞く気がないということも現状維持を選ぶことになり、その道は自らが選択したのであり、自己責任は厳密にその方にその結果をもたらすことになるのでしょう。
同情される人が相手を引き込むということも、結局は変わりたくない、現状維持がいい、成長なんかしたくない、だからその私を満足させて肯定して安心させてくれないと私は不愉快なの、という自分本位の勝手な都合を主張しているところにはまりこんでいくということになるのだと思います。
それが間違っているとわかっていて、自分の信じる道を差し置いて相手と同じレベルまで下がるわけですから、降りた差額分はごっそり陰始達にもっていかれ、自分もって相手も成長することなく落ちていくのはもちろん、主体性を放棄して自分を無くして相手に合わせているために生贄となってしまうことすらあるわけです。
いい人ほど同情によって落ちていく理由がこうしたことだと考えており、皆さんにぜひ考えていただきたいと思います。
まだまだ書き足りませんが、長くなったので一旦ここまでとします。
ありがとうございました。