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エゴについて、メモ


全体を見渡したうえで「理論」「理屈」を考えるのであれば、全体の働きを知ることはできるし、バランスもとれる。

 

 

しかし、ある部分だけを見て、その枠組みの中だけで同じことをやると、足りないために歪みが生じる。

 

 

その歪みをどれだけ正当化しようとしても、歪みが正されないばかりか、もっとひどくなることさえある。

 

 

「死」「見えない世界」そうしたものをまずは全体の一つとして考えないと、片手落ち。

 

 

「エゴでコントロールできるところ」「エゴでコントロールできないところ」、この組み合わせでも全体を考えてみるといい。

 

 

エゴのやること・考えることだから完壁ではないが、それを完璧と思いこむところがエゴでもある。

 

 

エゴ(不完全さ)ではエゴ(不完全さ)を理解できない。

 

 

エゴ(この次元をこえることのできないもの)を超えたところ、エゴが理解できないところ、そうしたところから物を考えると見えてくるものがある。

 

 

エゴで考え続けている限りは、考えが足りない。

 

 

守護の御神霊たちの御指導、宇宙全史で開示されている情報などは、エゴを超えたところのお話。


 

お祈り、エゴを超えた全体の働きを形にしたもの。

 

 

それらに限らず、そうしたものはあちこちに見え隠れしているのかもしれないが、多くのウソやごまかしや意味のないものなどに紛れているため、それを探し出すための感性や知識、経験が必要となる。

 

 

世に出回っている情報について、まったくウソのないものはまずありえない。

 

 

ウソや矛盾を見出し、真実や有益な情報を拾い集めて生きていく。

 

 

そのためにも勉強が大事。

 

 

学びが大事。

 

 

自他のまちがっていることや失敗を非難したり責めても意味がない。

 

 

見つけ出すことが、自身の成長につながる。

 

 

生きやすくなる。

 

 

大事なものを見つけるために、その目が自分の目であるのか、一度よく考えなくてはいけない。

 

 

誰かの価値基準でものを見ているから、考えや行動や結果にズレが生じて生きづらい、歪みが生じる。

 

 

「本来、人は自由に生きていい」と言われている。

 

 

ということは、自分の見たこと感じたことを信じて、自分のやりたいようにやり、考えたいように考え、生きたいように生きれば、生きやすさを感じ自由に生きられるということ。

 

 

しかし、実際は生きたいように生きると、生きづらい。

 

 

それはなぜか?

 

 

自他を否定したり責めるということが、お互いの自由を認めない生き方であるため、そうしたことが一因ではある。

 

 

それとは別に、信じていることが、自分の自由につながる見方で見れていないから、とも考えられる。

 

 

その信じているものが、自分の価値観、ものの見方ではないからではないか?

 

 

いま自分が信じているものは、他人の価値観、考え方ではないか?

 

 

親から、先祖から、社会から、代々受け継がれてきた「思い込ませる」という(BBSでいうところの)黒魔術によるものではないのか?

 

 

もしかしたら、物心ついてから一度も「自分」の生き方をしたことがないのではないか?

 

 

「自由に生きていい」

 

 

この一言をよくよく考えてみる必要がある。

 

 


 

 

以上、備忘録です。