以下、本日BBSに質問したものです。
虚空蔵55様、みわ様
先日はご回答いただき、ありがとうございます。
またRIE様へのご回答を読ませていただき、もっとレベルをあげなくてはいけないことを再確認いたしました。
ご回答を読ませていただき、わかりやすく伝えることが今後も継続的な課題となると教えていただいたのですが、今の私の理解では今後の課題はあまりに力不足なため、まず私自身が理解して自分のエゴと向き合わないことには、この先どうにもならないと感じています。
エゴについて、これまでにこちらで教えくださったことと、患者さんとしていらしてくださった方から教えていただいたことを、自分なりに整理していたところでした。
患者さんとしていらしてくださった方はこちらで私のことを知って来てくださったのですが、その方のお話を聞いて、これまでこちらで教えてくださっていることを理解しているつもりで、実は殆ど理解できていないことがわかりました。
私のレベルを上げるために、特別専任コーチをつけていただいていると感じています。
大変な時期ですが、一度目を通していただき、ご指導いただけるようでしたらお願いいたします。
エゴについては未だにつかみどころがない感じがして、考えるほどにエゴに翻弄されています。
こうした文章も、自分の言葉ではなく、借りものの言葉で書き連ねていることがわかってきました。
自分のことでありながら、これまではエゴにいいように転がされていたことがわかりつつある状態ではないか、と考えています。
エゴについて考えるようになったここ数日は、妙な落ち着かない息苦しさがあります。
こういう感じは思い返すと学生時代などにもありましたが、そうした場面で都度逃げてきたのが今の私です。
ここから逃げないことが今は大事だと思っています。
少し前に、エゴを薄くするとか無くすことについて考えていたはずが、気がつくと知らず知らずにエゴを正当化しようと考えていて、驚いたことがありました。
エゴを理解できていない状態でエゴについて考えていると、あやふやを積み重ねていることがわかるだけに、非常に歯がゆいです。
全体を見渡したうえで「理論」「理屈」を考えるのであれば、きちんと物事を考えられると思うのですが、エゴの自分という局所だけで理論や理屈を考えると、未熟でもありどうしてもなにか抜け落ちてしまいます。
ですから、まず全体像をとらえようとすることから考えてみては、と教えていただきました。
エゴが反応しやすいと思われる、目に見えるものやわかりやすいもの、また手っ取り早いなにか、そうしたものだけでは「全体像」は捉えられない気がします。
全体の働きのなかで考えてみると、エゴ以外、エゴ以上のものは、「死」や「見えない世界」「わかりづらいもの」などにあたると思います。
しかし、そうしたものはエゴが認めたがらないようですし、結果、限られた範囲の認識から生まれる理論や理屈は、自ずと片手落ちになっていくはずです。
そこで全体を、「エゴでコントロールできるところ」と「エゴでコントロールできないところ」にわけて考えてみることを話してくださいました。
私たちの体の働きでいうと、思うように動かせる骨格筋である随意筋と、意思とは別の働きをする心臓や内臓などの不随意筋があります。
体の働きとしてはもちろんそれだけではありませんが、随意筋だけで体の仕組みを理解したつもりになって、現れている症状や働きを理解しようとしてもうまくいきません。
エゴだけで考えるとは、そういうことかと思います。
また、エゴが働くところは、通常ほぼエゴに主導権をとられてしまいエゴに使われている状態だと思われます。
しかし、トレーニングして身体を意識的に使うことで、私たちはそうしたエゴの働きを少しはコントロールできるようになるのかもしれず、よく噛むことや肉体のトレーニングをされている意味もこうしたことが含まれているのでしょうか。
エゴを理解しようと思うと、エゴを超えたところやエゴが理解できないところ、そうしたところからものごとを考えると理解しやすくなるのでは、とも教えていただきました。
エゴでエゴを考え続けている限りは、おなじところを堂々めぐりしている感じです。
守護の御神霊たちの御指導、こちらの宇宙全史で開示されている情報などは、エゴを超えたところからのお話ですので、エゴにはまり込んでいる私たちがそこから抜け出したいと思ったときに、初めて意味がわかるのでしょうか。
他にもそうした恩寵ともいえるなにかが身の回りをはじめとする世の中あちこちに見え隠れしているのかもしれませんが、多くのウソやごまかしや意味のないものなどに紛れているため、一層わかりづらくなっているように思います。
それを探し出すためには、磨かれた感性や、役に立つ知識に、いきた経験が必要となるのであり、それらを身につけ成長していけばよりよく生きられ、成長がなければダマされ翻弄され続ける自由が私たちにはあるのだと思います。
ウソや矛盾を見出し、真実や有益な情報を拾い集めて生きていく。
そのためにも勉強、気づき、学び、は大事ですね。
また、学び方だと思うのですが、自他のまちがっていることや失敗を非難したり責めるよりも、反省して気付いたところから変えていくほうが生きやすくなるよ、と教えていただきました。
そうした改善点ともいえる箇所を見つけ出すことが大事で、気づいていないところは変えることができませんし、見つけて取り組めば自身の成長につながり、たしかにより生きやすくなるのだと思います。
しかし、そうした大事なものを見つけるためには、その目が自分の目であるのか、一度よく考えなくてはいけません。
誰かの価値基準でものを見ているから、考えや行動や結果にズレが生じて生きづらくなり、カルマというエネルギーの歪みが生じます。
『人はこれから「自由になる」ということを心がけねばなりません』と別巻に書かれていました。
これは自分の見たこと感じたことを信じて、自分のやりたいようにやり、考えたいように考え、生きたいように生きれば、生きやすさを感じ自由に生きられるということだと思います。
しかし、今の世の中では生きたいように生きると、生きづらいことが多いです。
それはなぜか、そう考えると、自他を否定したり責めるということが、お互いの自由を認めない生き方であるため、そうしたことがまず一因ではありますが、それとは別に、信じていることが、自分の自由につながる見方で見れていないから、とも考えられます。
その信じているものが、自分の価値観、ものの見方ではないからではないか、と話していただきました。
いま自分が信じているものは、他人の価値観、考え方ではないのか?
親から、先祖から、社会から、代々受け継がれてきた「思い込ませる」という(こちらでお話のあった)黒魔術によるものではないのか?
もしかしたら、物心ついてから一度も「自分」の生き方をしたことがないのではないか、 そう考えると「自由に生きる」、この一言をよくよく考えてみる必要があると思います。
ここまで、とりあえず理解はできていないまでも、知識や考え方として整理をしてみたことです。
昨日改めて非公開情報など読み返してみると、私がこれまで理解できていなかったことが点々と目に付きます。
理解できることが増えてきているため、こちらで教えていただいたものの気づけず見落としたり、理解したつもりになってスルーしてきたものなど、時間をかけて読み返して確認してみようと思います。
この文章を読み返しながら、自分のエゴが色濃く出ているところをこれでも修正したつもりではいますが、これ以上は今の私では難しいと感じましたので、読みづらい内容ですがご容赦ください。
一昨日こちらで左の更新がありましたが、書かれていた内容について以下のような考え方でいいのか追加で教えていただきたいと思います。
虚空蔵様が肉体に不調を感じたと今回左のNo.303に書かれていました。
意識の世界では思い込みがエゴだと考えていますが、自他の境目がある肉体もエゴだと思うので、エゴを通して陰始は私たちに働きかけていることになると思います。
であれば、私たちが注意しなければいけないのは、自らのエゴに他なりません。
魂が削り取られる、とは、例えばエゴで無意識にやったミスや失敗などが、今後想定以上の大問題になって身を削るような責任を負い、疲弊することが考えられます。
エゴの強い方が引き起こす無用なトラブルに巻き込まれたり、怖い夢を見ることももちろんあるでしょう。
最低限自分でできることは、今自分がしている仕事や発言、行動などに注意をはらい、無意識におかしなことをしていないかチェックすることだと思います。
家族や同僚についても、目の届く範囲で声をかけあっていくのは、やらないよりはやったほうがいいことではないでしょうか。
冬至までの過ごし方として、外出をなるべく控えること以外の考え方として、このような考え方でいいでしょうか。
よろしくお願いいたします。