宇宙全史の新刊についてです。
最近の私のなかのイメージとして、「陰始は否定の権化」というものがあります。
これは前巻に書かれていた『「滅びたい」という究極の自己否定』がその理由です。
陰始が、「滅びたい」とまで思えるようになった理由は、「否定しないものの考え方ができない」もしくは、「したくない」からなのかもしれません。
新刊の中で陰始度について「他人の思い」とありました。
(「自分が無くて陰始に操られている度合い」を「他人の思い」と書かれていました。)
非常に毒された印象を持つかもしれません。
「やられちゃってるな・・・」、みたいな。
ただ、竜馬の章でも書かれていましたが、自他の思いの方向が当面の課題をクリアするのに合致していればその時はあまり問題ではなく、「結果としてのエネルギー配分が重要」とあり、自分が困るようなエネルギーの取られ方をしなければいいようです。
自分の思いが弱い(自分をおろそかにする)ほど陰始に操られやすく、「自分だけ」に偏りすぎる(他者をおろそかにする)のもまた問題です。
私たちは今の段階での大前提として「他者とともに生きる」ということをなによりも最優先に選択しています。
これらは教えていただいたことでもありますが、「自分だけ」、「他人だけ」ではなく、広く見渡せるところからどちらも否定しない在り方を探す、そんな考え方ができることが一つ大事だと思っています。
最初に書いたように、「否定しないものの考え方」を陰始が苦手と仮定すると、それを身につけた場合に陰始度は下がることが予想できます。
「否定しないものの考え方」を突き詰めていったわけではありませんが、陰始の発端となる否定の始まりはこれかな、というものに今回気が付きました。
それがあっているかどうかはわかりません。
ただ、それは私たち一人一人にも影響を与え、それに気づいていくことで、私たちの意識の隅々までいきわたって蓋をしているものを転換する起点にもなるように思えます。
それ自体はここで書いたかどうか定かではありませんが、これまでいらした方にはお話したことが度々あったことなので、「それに気づいた」というよりは、「つながりが見えてきた」という言い方のほうが適切かもしれません。
すこし具体的に理解が進んだ感じがしたので、書き留めておこうと思います。
先日のブログ、「情報の読み解き方」にコメントをくださった方々がいらっしゃいますので、よければそちらもご覧ください。