BBSの更新がありましたので、考えたことを一部書いておきます。
●「誰が」とは、どの程度のエゴの歪み(陰始度?)を有している人なのか、ということ。
エゴのフィルターの「歪み」や「濁り」によって、全体性から来たもの(情報など)の純度が下がる。
純度が下がる、とは、その人の都合によるウソや、未熟さや理解不足による誤解や勘違いなどが混ざる、ということ。
しかし、それらが混じっていても「いいもの(純度の保たれているもの)」も含まれているので、やたらに否定はすることもないし、鵜呑みにもしないことが大事。
対象をよく見て考えてみるといい。
●「どこ」とは、行きつく先が「エゴ(歪みや偏りや濁りで行き止まりの状態のエゴ、全体性から区別された者)」なのか「全体性(循環、大本の自分)」なのか、ということ。
歪んだり偏ったエゴにエネルギーが行きつくと、そこから先にスムーズに流れていかない。
行きつく先のエゴ自体は、エネルギーが集まってくるから非常に気分がいい。
楽して得したいエゴが強いと、自分の外、「他者から手軽にエネルギーを取れればいい」となる。
エネルギーを奪うために平等関係ではなく隷属関係に持ち込もうとし、「お互いの自由を認める」という方向性ではなくなる。
自分を成長させて自由に生きる、という発想になりづらい。
行きつく先が全体性であれば、循環する。
やったことが、形を変えて返ってくる。
成長して扱うエネルギー量を増やせば、生きやすさが増す。
エネルギーの源泉を、自分自身に見出すことでもある。