人はこの世界でエゴを抱えて生きている。
エゴを抱えているということは、不完全であるということ。
不完全だから完全な状態を目指している。
それが大きな方向性。
それでも、どこを目指すかは人それぞれ自由のはず。
それを否定することは、自由を認めていないことになる。
自由を認める、とは、否定をしない、ということでもある。
「(不完全な状態から)完全に近づく」とは、「よりよくしていく」ということ。
そのためには「不完全さ」という自分の立ち位置をまず自覚し認めないと、起点が定まらず方向性を出せなくなる。
方向性を出せないということは、よりよくしていけない、ということ。
動く気にならないし、動こうにもどう動いていいかわからない。
「人の一生」という限られた時間の中で、できることは限られている。
頭は一つしかないので、一度に考えられることは一つだけ。
体は一つしかないので、一度にできることは一つだけ。
限られた中で、その一つしかできないことを何に費やすか。
例えば、ある情報を目にして、含まれているウソや間違いを見つけて否定的な考え方ばかりしていたら、その横にある自分を高めてくれる真実や道理になかなか目を向けることができず、思うように成長していかない、ということでもある。
それは行動から考えれば、「成長する気はないよ」と公言しているようなもので、ある時期を迎えた時にその結果を受け入れなくてはいけなくなる。
「だって、それが一番大事だと思ってたんでしょ?」と。
自由に生きられる中で大事だと思うことを選ぶというのは、好きな方を選ぶ、ということでもあり、好きにやった結果ならしょうがないよね、自分のせいだよね、と。
カルマもあるので、きちんとやっても毎度毎度うまくいくとは限らない。
限られた時間内に結果が出せなければ、途中頑張ったにしてもやらなかったことと同じになることもある。
「よく頑張ったけど、結果出なかったから、次は地球とは一緒にやってけないけど仕方ないよね、自己責任だもんね。」
「こういう結果がでるような取り組みをしたのは、他でもないあなた自身だもんね。」と、言われたら言い返すことはできないのではないか。
ある意味、信じて見守るという観音様の有り様はこういう厳しさを含んでいると思う。
「気づくまで待つ」ということは、「困ったら助けてくれる」ということではない。
気づいた時点で軌道修正してそれなりの行動を起こすから、因果応報でやったことの結果として救われるようなことになっていくだけ。
「天は自ら助くる者を助く」
「救世主はあなた自身なのです。」
「なるべく早く気づいて、やることやれよ」と、どこかの誰かにいわれている気がします。