「意欲」を「エネルギー」と考えてみる。
エネルギーを奪う、とは、意欲を奪うということ。
思い通り生きられたら意欲がわくし、意欲がわけば、よりよく生きるという方向性をだしやすくなる。
意欲を損なうと、生きる意欲が損なわれる。
それは大きく捉えて、死に向かう。
人の意欲が損なわれると、その人はよりよく生きるという方向性を見いだしづらくなり、滅ぼしたいという方向性をもつ陰始にとっては、思い通りになっているため、意欲がわいてくる。
人の意欲が損なわれることで、陰始の意欲が増す。
これがエネルギーを奪う、という仕組み。
上下関係、隷属関係などで奪う仕組みはこれ。
陰始は「滅びたい」が消滅しない。
人の意欲が損なわれて「滅ぼしたい」の方向性が進むほど、思い通りになっているため意欲が湧くし、自らが滅びの方向に向いても同じ理屈で、滅びたいが実現しない矛盾にはまりこんでいるのではないか。
とりあえず、滅びたい、滅ぼしたい、と一番強く思っているから、頂点にいるという理屈。
陰始との関係性は、同じ方向性を向いているから生じること。
違う方向性を「強い意思」で「あきらめずに」出し続けていけば、陰始との関係性からは抜け出していく。
陰始の望まない方向性は、よりよく生きる、という方向性。
成長を実感しながら、よりよく生きていくと、行き着く先はありのままの自分、素直な自分。
全体性の働きは自然な流れのようなもの。
自然な流れになじむ、損なわない状態は、ありのままであること。
行き着く先は全体性であり、全体性の中には「在る」ものがすべてある。
不完全なエゴも、意味のないように思えるものもすべて。
全体性を認めることは、エゴを越えたものを認めること。
自分より上位の意識に気づいていくこと。
物事がわかっている上位の意識は、物事がわからない下位の意識をコントロールできる。
守護霊さんと現象界の私たちみたいな関係性。
エゴは自分の都合で動きたいので、上位の意識に気付きたくない。
陰始も同じ。
全体性に気づいてそちらの方向性を求めると、よりよく生きる方向性になるため、「滅びたい」から陰始自身は気付きたくないし、「滅ぼしたい」から、みんなに気づかせたくない。
だから、陰始の限界はある意味エゴの枠組み。
エゴを越えた全体性に気づくことで、陰始を超える方向性を見つけたことになる。
そうすれば、陰始に振り回されなくても済むようになっていくのではないか。