不完全なことにたいして、足りなかったり未熟なところを補おうとするのが、幸せだとする。
しかし、不完全でないことに対しておなじことをすると、力を奪うことがある。
いわゆるお節介や善意の押し付け、先まわりした指導などはそれにあたる。
足を怪我して満足に歩けないとき、車に乗せてもらえばありがたい。
しかし、普通に歩けるのに車ばかり使えば、足は衰える。
空腹を満たすためには食べ物が必要だし、喉が渇けば水がほしくなる。
生活していくにはお金が必要で、ことを成すには学ばなくては、と、それぞれの段階で思うことや感じることは違うかもしれないが、不足を感じたら補おうとする。
食べ物や知識やお金、それぞれを互いに補い合いながら今は生きている。
そんな生き方は嫌だから自立するんだ、と言っても、自然から離れることはできないし、人との関係性で自立をしようとしても、その境涯に至っていない身の丈以上のことをしていたら無理がある。
無理とはありのままではないということ。
ありのままの自分ではない、偽りやごまかしのウソの自分であろうとすること。
そうありたい、と頑張ることは悪くはないから、不完全さを認めて意欲を損なわず取り組み続けられるなら、そこにはウソがでてこない。
自覚するといいのは、不足を生じるような自分である、ということ。
そこを認めたら、補われたときに感謝の気持ちになる。
お腹の不足が解消され、財布の不足が解消され、知識の不足が解消され、経験の不足が解消され、感謝の気持ちがでてくる。
衣食足りて礼節を知る。
そして感謝の気持ちが出た時に感謝のお祈りをすると、自分の気持ちにウソがない、思いと行動が一致した深いお祈りとなる。
一度に考えられることは一つだけ、一度にできることも一つだけ。
一番大事だと思うから行動に移しており、それが深いお祈りであれば、行動の先にある結果や運命がどうなるかは自ずと見えてくる。
運命は自分が作っている。
過剰なサービスや行き過ぎた気遣いなどは、人の力を奪うことがあり、楽をしたい気持ちがあれば依存になっていく。
不完全さを知る前に便利さばかりに慣れてしまうと、補い合う考え方がよくわからなくなるのではないか。
ある程度限界を知ることは大事で、身の丈を知る意味でもそれなりの苦労はしたほうがいい。
苦労しなくて学べるならそれでもいいが、ある程度物事がわかるレベルでないとおそらくそれはできない。
自他の自由を奪わなければ、あるものはなにをどう使ってもいい。
自由を奪ったり意欲を奪うような全体性を損なう使い方をすることが問題。
だから全体性を損なわないためにも、まずなによりも全体性でものを考えるようにするといい。
すべてがそこに含まれているから、これまで得てきたもの全てもそこに含まれ、なにも否定しなくていいし、全てがつながってものを考えられるようになっていく。
すべては全体性でおきていること。