覚醒していないのでわからないこともありますが、まず何よりも「全体性のなかには存在するものごと全てがある」ということを考えてほしいです。
「全て」ですから、いいもの、わるいもの、素敵なもの、くだらないもの、優れたもの、愚かしいもの、無駄に思えるもの、なんでもあるわけです。
それは私たちそれぞれが学び、体験したものごともすべてがある、ということでもあります。
全体性を意識するようになってから驚いたのは、どんな理屈も必ずどこかで繋がりがあることがわかるようになった、ということです。
まだ私自身は学びの途中なので、すぐに繋がりを見出せないこともありますが、それでも真剣に考えたなら必ず答えは見えてくる、と信じられるようになりました。
様々な理屈はあれども、その繋がりまでは見いだせていないゆえ、皆が迷い、時に責めたり後悔します。
全体性の中にあるものを、平仮名を例に考えてみました。
「私はこれまでの人生で、『ら』『れ』『く』『だ』『し』を経験してきた。
しかし、なにも意味のない人生だった。
特に『し』はひどい経験で、今でも許せない。」
と考えていたとします。
しかし、そこで全体性を踏まえて考えた時、すべては存在していて必ず繋がりがあり、その繋がりから意味がわかる、と考えると、『ざ』という言葉を加えて繋がりを考えてみてはどうだろう、と思いつきます。
すると『しだれざくら』という一つの言葉ができあがり、やってきたことの意味を見出すことができます。
なにも否定する必要がありません。
学びにおいても、なにか新しいことを学ぶと「今までまなんできたもは間違っていた」と否定することがありますが、そんな必要はなく、それぞれを活かして、不足を補いながら繋げるだけなのです。
誰も、なにも、否定する必要はなく、その存在全てを認めることで全てが動き出します。
先週土曜日に私が見た『ン』は、最後の一文字です。
それが何を指しているのかはわかりませんが、これまで欠けていた最後の1ピースがはまった、という意味だったようです。
それがないから、先に進まない、全てが繋がらない、そういうものでした。
それがハマり、全てが動き出します。
流れ星は、その流れを表しており、いよいよ始まる、という意味だったようです。
教えてくださった方がいての理屈ですが、ようやく腑に落ち、これからわかりやすくお伝えできるようがんばります。
この理屈は否定などによって意欲を損なったり、人の不幸を喜ぶ方達にはひっくり返せないものです。
否定によって意欲を奪ってきたものにとって、否定できない、それどころか全肯定されてしまっては、意欲を奪うどころではなくなります。
今の時間に校正していますが、朝この理屈の概要がつかめた喜びのまま書いた文章をほぼそのまま残していますので、わかりづらいものとなってしまい申し訳ありません。
今思うと、朝は頭の上が軽く開いていたんでしょうね、どうあってもポジティブに意欲にあふれてしか考えられない状態になっていました。
濡れないように小走りにかけていく猫を見ただけで本気で笑っている自分に、「ついに壊れたか(笑)」と思っていました。
いまは落ち着いていますが、いい体験ができています。
理屈については、ようやくたどり着いた感じです。
また少しずつ皆さんにわかるように書き連ねていきます。