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今日も飽きずに全体性

 

タイトル通りで、今日もそんな感じの内容です。

 

このところいろいろ書いていますが、エゴ(部分)ではエゴを越えた全体像をつかむことはできませんので、個々の段階に応じた解釈でいいと思います。

 

ただ、想いが運命をつくる、という仕組みがありますので、できるだけ真剣に考えていただいた方が、よりきちんとした解釈になるはずですから、その点を意識してください。

 

シンプルに「全体性はある」と思い続けていれば、その人にあった答えがインスピレーションとして浮かぶようですので、ここに書かれているのは私の見方として考えるようにしていただくと、無理が無いと思います。

 

 

 

全体性とは、すべては一つである、ということ。

 

存在するあらゆるものが全体性にあり、私たちもまたその内に含まれる。

 

過去や今はもちろん、これから存在を確認されたり活用されるものや仕組みもすべてがある。

 

だから今ここという話になるのではないか。

 

全体性を構成する存在である以上、無くなることはない。

 

しかし、形を変えることはあるかもしれない。

 

エゴでとらえれば消えるように見えるし、全体性からみれば形を変えただけになる。

 

だから、全体性から考えるようになると無くならない。

 

私もあなたも、全体性という存在の中で永遠ともよべる時間を存在し続ける。

 

どんなに親を恨んでも、肉体で生まれてくる以前から私たちは存在し、どんなに悔やんでも、その子はお腹に宿る以前から存在している。

 

「否定」は「無いことにしよう」とすること。

 

無くならないものは消せないし、消せないものは否定できない。

 

どんなに否定し続けたとしても、存在を無くすことなんてできやしない。

 

自分を無くそうと責め続けても、自分すら消すことができない。

 

存在を否定することなんて、誰一人としてできるものはいない。

 

だから、まず存在をすべて認める。

 

全体性がある、と思うようにする。

 

あるものの中で何を選ぶのか、その方向性が小さな私たち自身なのかもしれない。

 

それは運命を創造し続けているということ。

 

なにも消すことができない、だから私たちは神に存在することを許されているといえるのではないか。

 

「存在していいんだ。

 

消せないから否定なんてできない、私たちは存在していいんだ。」

 

今回初めて「自分が存在していいのだろうか」という疑問を無自覚無意識に抱き続けてきたことに気づいた。

 

そして、安堵した。

 

誰かを傷つけたり、自分が傷ついた、と思うのは、この自分の存在への疑問があるからではないか。

 

やっぱり存在してはいけなかったんだ、と存在を許してくれていることを信じられなくなるからではないか。

 

「だれも私を否定する(消す)ことはできない、だったら思うように生きてみたい、生きていきたい、自由をもっと感じたい!」

 

あるものはなんでも使っていいのなら、創造し続ければいい。

 

創造は運命であり、やったことの結果の積み重ねである。

 

因果応報によって、喜びと共に創造し続けたい。

 

エゴに線引きされた不完全な私だが、お互いに助け合いながら生きていけば、限られた寿命のなかであっても創造し続けていける。

 

全体性の流れに溶けこんでいったとしても方向性を持ち続ければ、全体性を損なわない大きな流れの中の小さな流れとして存在し続ける。

 

小さな流れは、ある意味個性であり、自他の境目としてのある段階のエゴである。

 

思いの強さが、流れの勢いとなり、全体性の中で影響しあいながら流れ続けていく。

 

おそらくその流れはビッグバンから始まっており、原初の思いは、ゆらぎの中でとことん楽しみ味わい尽くす、であるような気がした。

 

 

 

今日もわかりづらい感じですが、一応書き留めておきます。