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タイタンさんへのコメント

 

ここ数日、家族で発熱して休んでいました。

更新が滞り失礼いたしました。

 

コメント欄に書くには長くなってしまいましたので、こちらに書かせていただきますが、#10のコメントをいただくまでのタイタンさんに向けたものですので、その点だけご了承ください。

 

 

 

タイタンさん 

 

コメントを返していただき、ありがとうございます。

 

現状非常に厳しいと思い私なりに悩みながら文章を書いていたのですが、書き終えた頃にタイタンさんからの再投稿(『自他一体』コメント#10)があり、思わぬ変化にとても喜んでしまいました。

 

 

 

そしてこれまでのタイタンさんのコメントを読み返したのですが、そこから受ける重く曇った印象がずいぶん軽くなっていることに驚きました。

 

課題をクリアしたとはいえませんが、エゴが薄くなり、これまでの状態から抜け出す方向性が出つつあるようです。

 

私自身のコメントの厳しさもいつもではありえない内容ですが、書いているときはやはりタイタンさんの奥に隠れているエゴがあぶりだされているかのように見えていたため、厳密なものを求められただけの意味がある事だったのではないかと思います。

 

 

 

UENさんの内容(『自他一体』コメント#9)も非常に分かりやすく参考になった方が多いと思います。

 

私の下の内容に出てくる「守破離」の話は、師匠と弟子の関係で主に重視されてきたものですから、UENさんのお話の方がより一般的でわかりやすいかもしれません。

 

自分の立ち位置をUENさんの1~6の中でどれに該当するか考えていただくといいと思います。

 

 

 

私の考えていた文章もみなさんの参考になるかとおもいますので、多少厳しめですが掲載しておきます。

 

タイタンさんご自身にとっては、意識レベルの上がっている今の方がお話をより素直に聞いていただけると思います。

 

巧妙に隠れているエゴに気づくのはなかなか大変ですので、見つけた時に取り組む事が大事です。

 

 

 

余談ですが、ここには内容を掲載しませんがコメント欄に書き込みのあったpapasさんやUENさんの他にもタイタンさんを気遣うメールや連絡を下さった方達が数人いらっしゃいます。

 

ここ数日更新ができない状況でしたが、その間にタイタンさんに気づきを促すアプローチもしっかりなされており、ご自身がそれをきちんとキャッチできているため、ここで軌道修正がなされつつある一つの正念場だと思って今の取り組みを続けて下さい。

 

様々なアプローチで変化を促されている意味がそれなりにあり、あとが無い状況でおそらく集合魂を代表してこの場にいらしてくださっていますから、ここは大きな変化(成長)を求められている場面ですので、性根を据えて取り組まないと心底後悔すると思います。

 

 

 

以下の文章には私のエゴが強く出ているように見えるところもありますが、事実を事実として認識することはエゴとは異なり、ありのままを認める過程においても大事な事になりますので、そのあたりも考えるようにしていただくといいと思います。

 

エゴを無くす、という発想から過剰に考えすぎて潔癖になることもあります。

 

エゴだから、悪魔だから、悪い人だから、と事実を事実と認めることができなくなり、良いものは良い、悪いものは悪い、ということが分かりづらくなることがある気がします。

 

 

 

「誰が言ったか」ではなく「なにを言っているのか」でものを見ないと、大事な事を見落としてしまうこともあります。

 

詐欺や陰謀、企業の都合に合わせた情報などについて話を聞いたことがありますが、なぜだまされるのかといえば、そこに真実が数%でも混じっているからなのだそうです。

 

そうした情報は非常に力を持ちますので、そこにひかれてだまされてしまうのだとか。

 

 

 

話がそれました。

 

以下、タイタンさんへのコメントです。

 

 

 

 

 

私も不完全なエゴですので、エゴが何なのかをすべては理解できていません。

 

しかし、断片的には分かることもあります。

 

その断片の一つですが、エゴの特徴として「正当化する」というものがあります。

 

 

 

変わりたい、という想いを実現するには、正当化ではなくこれまでの自分の考え方を変えなくては変われません。

 

これまでも言葉として出てきていますが、「方向性をだす」ことによって変化ははじまります。

 

なにを大事にするか考え、決意し、取り組む、ということです。

 

 

 

私自身は未熟で幼い面もあるため、五井先生のお祈りはもちろんですが、これまでも今現在も優れた方の考え方や行動を「真似て」取り組みを続けています。

 

BBSに少し前に掲載されましたが、私は覚醒の一瞥体験とも呼べるものを体験しています。

 

完璧とは言いませんが、取り組みや考え方に間違いがあれば、まぐれでそういう結果がでることはないと思っています。

 

 

 

ここでお伝えしてきている内容はそうしたもの(取り組みや考え方)であり、それに基づいて一度は結果が出ていますので、やはりそれなりの根拠にはなると思います。

 

真似るというのは生きる上で子どもが親のやることをまねたりするのはもちろん、習いごとや仕事に「道」とつくようなあらゆるジャンルで行われていることでもありますが、私が真似る理由は、手本とするその方(自分よりものが分かっている方)の考えていることすべてを完璧に理解できないからです。

 

できることからやらないと意欲はでませんし、結果も伴いませんので成長も滞ります。

 

 

 

優れた方、特別な方、そうした方たちができるやり方なら他でいくらでもあるとおもいますが、ここではやる気があれば誰でもできるやり方としてお話してきている内容ですので、エゴの強い方には面白みのない魅力のない意味のない話ばかりかと思います。

 

私も途上でありきちんと身についていないことをお話していますので、お伝えする難しさは折に触れて感じています。

 

それぞれの事情でなかなかご来院できない意欲のある方の能力を出来るだけ伸ばしたい、そう思い書いているブログやコメントですので、今回は長い文章ですが今しばらくお付き合いください。

 

 

 

タイタンさんがおっしゃるように「文字で、自分が意図していることを相手に正確に伝えるということは、本当に難しいですね」、はその通りだと思います。

 

私たちはエゴという不完全な状態である以上、エゴを越えるものへの理解は完璧にはできませんし、言葉も完璧に使うことはできません。

 

完璧に使えない以上正確に物事を伝えられませんので、少しでも的確な言葉や相手に伝わる言葉を選ぶことが大事になります。

 

 

 

全体性をエゴから見るイメージですが、大きな地図をルーペか虫眼鏡で見ている、というのはどうでしょうか。

 

ピントを合わせると近くしか見る事ができませんので、全体を見ようと思ってもぼやけてよく分りません。

 

そこでルーペや虫眼鏡を外す(なくす)という発想になってしまいがちですが、それらを使わないと見えないよう近視眼的状態ですから、段階的にできるやり方があればその方がより確実だと思いますので、ここでは度数を徐々に変えて視力を良くしていただき、ふつうの眼鏡やダテ眼鏡くらいになっていく過程を「エゴを薄くする」と考えていただくといかもしれません。

(※この場合、完全覚醒は裸眼でしょうか。エゴが極端に強い方の中には、電子顕微鏡という方もいるかもしれません。)

 

 

 

私は物事の順序の大切さが、ここ1年ほどでようやくわかってきました。

 

例えば、「守破離(しゅはり)」という考え方をご存知でしょうか。

 

「守」とは、より歪みの少ない考え方や、物事を分かっている方の考え方をまねる事だと思います。

 

 

 

「自分なりに」というのは、ここでは「破」にあたります。

 

つまり、「守」の段階をクリアしてから取り組むべきものです。

 

基礎が身に付かないまま応用を利かそうとすると、土台が歪んだままではその上に積み重ねるものも歪んでしまいます。

 

 

 

通常はきちんとした道筋でないと、思うような結果に至ることは困難です。

 

しかし理解の追いつかないまったくの初心者でも、その道に長けている方の話や指導を仰ぐ等して、ある段階まであがれるはずです。(途中であきらめると、そこまで到達できません)

 

ある段階にいたって私たちは指導者の意図や考えが分かるようになり、自分で創意工夫することで2流から1流をめざすような更なる進歩を目指すことになります。

 

 

 

この時に大事なのは、その方に成長する意思があるかどうか、ということです。

 

そういう意思がなければ、教えても伝わりませんし、嫌がる相手に無理やり押し付けても自由を奪うことになります。

 

ここに一生懸命書き込んでいただき、変わる気もあると御自身でもおっしゃってくださっていますので、私はこうしてコメントを書かせていただいています。

 

 

 

不完全ゆえものごとを完璧に理解することができないので、よりものごとをわかっている存在に聞くというのは、成長を求める際に重要な事です。

 

まちがった言葉でまちがった取り組みをしてもおもうような結果はでませんので、より歪みの少ない事柄を相手に正確に伝えるには、よりきちんとした言葉や表現などを選んだほうがいいわけです。

 

ですから、少しでも成長でき、結果もだしやすく、取り組みやすいこともあり、真似るということを人はあらゆるジャンルである時期まではしているのだとおもいます。

 

 

 

「守」の段階で自分なりの言葉で言うということは、少なくとも指導をしている方よりも間違った言い回しになっていることが大半です。

 

まちがった取り組みは、まちがった結果に至ります。

 

そうした場合に軌道修正することをここではお伝えしていますが、今回はそのことを指摘されて自分の修正箇所が分かったものの、言い訳などの正当化が徐々に顔を出してすっきりしませんでした。

 

 

 

言葉に出す、ということは、なにかしら大事だと思っているという事で、なんとなく補足や正当化のように書いているところにエゴがひっそりとたたずんでいるようなことがよくあります。

 

覚悟が決まるにつれ余計なものは取れてシンプルな考え方になり、そのシンプルな考え方に照らし合わせてみる事で、他人のエゴが良くわかるようになります。

 

一度に考えられることは一つだけ、と何度か書いていますが、課題が見つかって取り組む意思があるならば、言い訳や正当化ではなく、「自分のコメントを見返してみます」「まずやってみます」「指摘された内容を一度考えてみます」という行動に移すコメントが本来ではないでしょうか。

 

 

 

タイタンさんの中では聞き入れる以上に正当化することが重要になることがあり、今回のやり取りの中ではエゴが猛烈に嫌がっている状態です。

 

必死に抵抗している状態に少しでも気づけたならば、「誰が」そう思っていたのか、いままさにテーマとされている観照者の立場で一度観察なさるといいかもしれませんね。

 

 

 

真剣に取り組めばエゴ(思い込みによる自他の境目)の駆け引き(考え方を変えたくない)などは二の次となりエゴの働きが弱くなるため、全体性ともつながりやすくなります。

 

そこからようやく全体性からのインスピレーションを得やすくなり、気づきもきちんとしたものが得られるはずです。

 

変わるために必要な事が分かるようにもなりますし、それに基づいて行動することで結果も出てきます。

 

 

 

「わからないなりに」というのであれば、先ほども書きましたが、まずはより物事をわかっている方のやり方を真似ることにより、理解の基盤をつくることがいいと思います。

 

自分の言葉で書くことが大事な場合もありますが、それは守破離の話にもあった順序にそってなされた時に意味をなすのであって、まちがったタイミングでまちがったことをしゃべることこそが「知ったかぶり」というものです。

 

それをわざわざ書いたのがタイタンさんのエゴであり、今回そのエゴの働きをお伝えすることで、なんとかそうしたエゴの歪みを解消していただきたいと思ってコメントを書かせていただきました。

 

 

 

自他の区別ももちろんそうですが、それとは別にエゴは思い込み、とここのブログでは何度か書いてきました。

 

思い込みは無意識でもあるため、なかなか自覚できません。

 

それを自覚できた時、歪みを解消する機会を得るのです。

 

 

 

歪みの解消によって、エゴ(歪み)で覆われた自身と全体性との調和が少し増していきます。

 

私は覚醒はしていませんのでドングリの背くらべではありますが、いまは私(だい)の方が分かっている、と思っていただけるならば、なんとか私の伝えていることをわかろうとして、御自身の方向性を決めて下さい。

 

 

 

私に質問してきているということは、私の方がものを分かっていると考えていただけているからでしょうから、ある程度自分よりわかっている人間がわかって伝えていることを、気づけていないこととはいえ「自分はそんなつもりではない」と言い返せてしまえる幼さになんとか向き合っていただきたいです。

 

変わる気がある、と言いながら、態度は正当化することによって「変わる気はない」「拒否」となっています。

 

自分の強い思い込みに向き合い、そうした考え方を変えていくことがエゴを薄くする取り組みであると私は思っており、「エゴを薄くする」は宇宙全史で何年も何度も繰り返し言われ続けてきたことです。

 

 

 

それを受けての御自身の学びの今の結果を、今回キチンと受け止めないと今後は相当厳しいと思います。

 

本来こういう厳しい内容で書くことはあまり好きではありませんが、私なりに意味を感じて書いていることです。

 

タイタンさんがある一定の段階に至れるよう頑張っていただけると嬉しいです。

 

 

 

話をもどしますが、お祈りにしても五井先生という物事がわかって信頼のおける方が「これいいよ」と勧めてくださったものを、我々は意味が分からないなりに真似して取り組んでいると思っています。

 

「愛」や「赦し」や「消えていく姿」などの意味が理解できていなくても、わからないなりに続ける(真似る)ことで少しずつ理解できることが増えてきてのではありませんか?

 

タイタンさんはお祈りをずっと続けてきていらっしゃいますよね。

 

 

 

そうした実績が十分あるので「真似する」ということを今回お伝えし、タイタンさんにできることと思いお話しさせていただきました。

 

むくれず、腐らず、なんとか受け止めてくださることを願います。

 

 

 

長くなったので要点だけまとめてみます。

 

○私からのコメントに対し、エゴ(歪んだ考え方)が歪みを正当化して聞き入れようとしていない。

 

○「変わる」という方向性をだす。

 

○変わるための取り組みとして、いい考え方やいい言い回しをまねて続けてみる。

 

 

 

その上でなにかご不明な点は、またこちらにコメントとして書いていただけますでしょうか。 

 

 

補足です。

  

『「エゴ(不完全)が私」の私達では不完全であるが故に、全体性の方向が何かということは分かることは出来ないが、…』
ここのところが、私のモヤモヤの一つでした。
時々、重箱の隅っこが気になってしまい、そこから抜け出せなくなることがあります。

 

あちこち私の説明が不足しているとは思いますが、今回読み返していて重箱の隅などではないことで目に留まりましたので書いておきます。

 

全体性というのは自分(エゴ)より上位の意識にあたるため、自分より上の意識体の考えていることはわかりませんから、例えば修行中の弟子が師匠の考えていることを理解はできませんし、ブッダや五井先生の考えていることも私たちではなかなか理解できるものではありません。

 

守護霊さんの考えていることがすべて分かれば、守護霊さんと同等の意識レベルということになります。

 

こういう書き方でわかってもらえますでしょうか。

 

 

 

以上です。