先日のブログには「自信が大事」ということを書くつもりでしたが、いつの間にやら違う内容にすり替わっていました。
前にも書いた内容ではあるものの大事なところだと思いますので、よければ読んでください。
先日の「メモ 基本的な考え方」のコメント内容
『エネルギーが無いなりに知ろうとすることは、より正しい、にはあまりに頼りない理解しか得られないと思うかもしれませんが、・・・』
で、「あまりに頼りない理解しか得られない」と書きました。
ここで自分の取り組みに対する自信があるかどうか、自分のやっていることは正しいと思えるかどうかで、その先が変わります。
極端な話、アセンション方向とディセンション方向の違いになる、ということです。
(余談ですが、ディセンションしたければ不幸を願って行動に移す、アセンションだったらどうでしょうか。地獄に堕ちたら、やったことが返ってきただけなので、文句を言わないで反省すればOKらしいです。)
自信がないと「たいした理解ではないから・・・」「稚拙だから・・・」「誰でも考えることだし・・・」と勝手に卑下してしまい、そこから「深める」「続けていく」といったことをあきらめて取り組みを止めてしまうことがあります。
日頃の意識の向け方で、自分のできなかったところにばかり目が行っていると、自信は育まれません。
同じやったことの中にもできたことはあるはずです。
取り組んだなりの結果は出ているので、そこに目を向けて、(良い悪いの判断は外して)「今できる範囲でベストを尽くした」「ここまではやった」という自覚が大事になります。
「ここまでしかできなかった」が口癖になっていると、どんなに些細なことも否定的に見てしまいますし、どれだけいい結果を出しても、どこか斜に見て素直に喜べません。
ベストを尽くしたとしてもそのことが認められず、自分の取り組みに対して常に自信が持てなくなります。
ベストを尽くしていれば、誰に何を言われても胸を張っていられるものです。
平常心を揺さぶられるようなことが起きたとしても、ベストを尽くしてきたことで生じる自信があれば、過不足ない(偽り・ウソのない)自分を素直に認められるため、平常心を保つことができます。
不完全だから失敗もするし、毎回同じ結果が出せるものでもないのですが、そこを良く見せようとして素の自分とは違うウソを混ぜると、ウソがばれるのではないかと動揺して平常心を損なうことになります。
わかったふりや出来たつもりはその典型で、言い回しにそれがよく表れているので、丁寧に文章を見ていくと自分のエゴも見つけやすいのではないでしょうか。
そこが素直に認められるようになってから、目標を決めて達成できるよう取り組み方を考えると、意欲を無駄に損なうことなく集中して取り組めるようになるはずです。
結果も伴うようになっていきます。
それですぐに結果が出るとは限りませんし、毎回いい結果が出る保証もありませんので、軌道修正は都度必要です。
ただ、葛藤が生じない分、積み重なっていく経験は自信になります。
自分のやってきた実績を信じること。
自分の出来る取り組みで、一番調子の良い時の達成度が10個のブロック、どうにも低調で一番悪いときが1個のブロックとした場合、調子のいい時は最小単位の1個が10個積み重なっていると考えてみます。
1×10。
最小単位をおろそかにするとどうなるか。
歪んだ否定的な物の見方「1」個を10個並べても、歪んだ10個になってしまいます。
10個積み重なっても、どこか否定的に自分の結果を見てしまい、そこから上を目指す意識は希薄になります。
一方で同じ10個でも、できたことを素直に認める歪みの少ない最小単位「1」であれば、やった分だけ実績として認められます。
その積み重ねが土台となり、さらなる成長を積み重ねることができるかもしれません。
最小単位にあたる自分の一番調子の悪い時や、まったくの初めてで取り組み始めた時など、素直にできた分だけ認めて、できることなら喜べるといいですね。
意欲も沸いてくることがありますし、こうした考え方も陰始度「自分の不幸(思うようにいかない)を願う」に関連してきますので、意識的に取り組めるようになるといいと思います。