今日からいよいよ8月後半ですね。
6月に零一さんがご来院くださり、その時の会話をわかりやすくまとめてくださいました。
日頃ブログで書いていることですが、口頭ではまた違ったニュアンスでお伝えしていましたので、参考になることもあると思います。
以下、零一さんのまとめです。
★全体性(=実存=本源?)について
有形・無形問わず、存在するもの全ての全てを含む存在。
境目・区切りが無い(無形で範囲・限界というものが無い)ため、人間の言葉での説明や、現状の認識の範囲でイメージする事が難しい。
宇宙全史では「否定的表現をもって間接的に限定することができる」と書かれている。
「あるということもなく、ないということもない」「すべてでもありすべてでもない」など。
部分的には不調和に見えても、全体でみれば常に動いて変化し続けながら完全調和しているイメージ。
だから変化・成長を望まない、現状に満足して停滞する事は、全体性にそぐわない。
例えば銀河全体を包み込みながらゆっくり回転しているようなイメージ。
最終的に全ての存在が全体性に収れんするならば、収れんのイメージが銀河の中心点のイメージ。
そのようなイメージの中で全体性を向くとは、どのような立ち位置(無数にある銀河の星々の中の一つ)からでも銀河の中心に向くイメージ。
全体性に向いていれば、どのような立ち位置にいても(何処を出発点にしても)いい。
それが多様性を認めるという事。
全体性を認識・認めることができなければ、物事の本質(例えばエゴ)について正しく理解する事はできない。
それは全体性の中の一部を切り取った範囲(偏った狭い認識・木を見て森を見ず)の中で、思考・判断する事になるから。
五井先生の「神様にまかせきる」は、全体性を認識・認めて、常に全体性を意識しながら、方向性を全体性に向けるということ。
★ありのままについて
ありのままとは、三次元のエゴで行きつく一番ニュートラルな状態(素の自分に返る)
全体性と一体感が持てる状態、一体感を保ちながら行動できるようになること。
ありのままの状態になれば、上に繋がる道(覚醒)が見えてくる。
ありのままに向かうには、全体性を認識して認めなければ始まらない。
ありのままの状態を認めることは、勉強して知識を増やすことではなく、物事をそのまま見る事(難しい部分がある)、素の自分に気づくこと。
全体性のもとで存在しているという事は、ある存在がどのような立ち位置にいても、その存在に対して全体性を頂点とする上位の意識が働いているということ。
全体性を認められない(認めたくない)ならば、無意識のエゴが邪魔をしているのかもしれない。
自己都合で自由に動きたいエゴにとっては、上位の意識を認めることは不自由になる気がして疎ましく感じる存在だから。
★ありのままに向かうには
ありのままに向かうには、常に全体性の中で物事を考える・全体性の働きとしてどうなのかを考える事。
全体性を強く思う事で様々なものが見えてくる。
全体性を向いた学びでないと、学びになっていかない(エゴに向いてしまっている可能性がある)
真理(全体性の働きを表す)は全体性の中での理屈であり、エゴの中での理屈ではない。
道理を学ぶのは全体性を知るためであり、エゴの歪み・全体性を損なっていないかを知るためである。
全体性の中で物事を考えるとは、「善ではないから悪」「金持ちではないから貧乏」など、対語的な考えではない二元性の枠を超えた考え方。
全体性を強く意識する中で目標を明確にして、強い思い・嘘のない思いで取り組むべきことに取り組む事で、きちんとした結果・明確な姿を現す。
曖昧な目標・思いでの取り組みは曖昧な方向・結果しか得られず、無駄が多くなる。(今からの時間は限られているのでもったいない)
頭も体も一つしかないので、自分の時間軸の中で出来ることは常に一つであり、あれこれやっているようでも一つしかやっていない。
自分の時間軸の中で考えている事は一番大事だと思っている事であり、一番大事だと思っている事をやり続けている。
それは即行動に現れていて、自分が一番大事だと思っていないつもりでも一番大事だと思い込んでいる。(エゴに支配されている)
自分たちは「クズ」の状態を解消する力を持っていると自覚すること。
自覚しない(気づかない)と力を使えないし、どうしていいか分からず対処できない。
最初は明確にわからなくても、埋もれているものを一つ一つ確認しながら、徐々に自覚していくことによってきちんと使えるようになる。
それが出来ていくと、過剰に自分を大きく見たり卑屈に思ったりすることもなく、ありのままの自分の身の丈に合った使えるものをきちんと使う事で、平常心を保ちながら取り組むことも出来るようになってエネルギーを損なう事も無くなる。