情とは、良くも悪くもエゴの価値観で自分が考え行動すること。
全体性の理屈や道理よりも、エゴの価値観を優先している状態。
同情とは、やはりエゴの価値観を優先しつつ、相手の価値観の方が歪みがつよい場合に自分の価値観を疎かにし、相手のエゴの価値観の方を「いいね」といって優先している状態。
非情とは、こうした自分や他人の情よりも、より歪みの少ない全体性の道理や理屈を優先すること。
いいものはいい、ダメなものはダメ、正しいものは正しい、違うものは違う、そう判断でき行動に移せること。
余談ですが、特別視について考えていたところ、神社で神様をあてにして拝みにいくというのは、神様を祀るというよりは特別視することによってそこに封じ込めている、そんな感じがしました。
全国各地に祀られている?神様は、バラバラにされて封印されているかのようにみえてきます。
御嶽山が噴火したことがありましたが、あの山はいわゆる霊山として山岳信仰の対象になっており、その山頂に祀られていた(封印されていた)神様があの時解放されたのかも、なんてことを考えたりしています。
写真は、もう亡くなられていますが、父の書の先生が書かれた字です。
(内容を一部修正しました)