人には「幸せ」を願う気持ちと「不幸」を願う気持ちがあります。
言い換えると、思うように生きられる「自由」を願う気持ちと、思うように生きられない「不自由」を願う気持ちです。
そうした気持ちは自分に向けられたり他者に向けられたり様々ですが、ここをよく自覚し、意識して幸せを願うようにしていけるかどうか、一つのポイントです。
なぜなら、無意識では不幸を願うということをつい私たちはしてしまうからです。
なぜ「つい」してしまうかといえば、癖になってしまっているからです。
癖になるほど繰り返してきたのは、歪みの多い世の中に長く身を置いて癖になるほど繰り返してきたからです。
本来の進化成長の方向性に蓋をしたために生じるようになった歪みがあり、その蓋は神を特別視することで、そのことにより私たちは方向性を見失いました。
そして、神の先には全体性があります。
全体性を見失うことで、私たちはエゴの範疇をぐるぐる回り続け、歪みを増やしたり強化しながら癖やそれ以上のものを身につけて今に至っています。
弱肉強食の世界では、力のあるものが優位に立ちます。
いまは不幸を願う数が優位に立っており、そこから幸せを願う方向性に進むには、それらに引きずられないような自分でなくてはなりません。
ある時期を越えると数が逆転しその優位性が変わる可能性がありますが、先駆けて方向性を出す人は、まず全体性に方向性を定めることができるかどうか、そして結果を出すために自信をもって日々取り組んで自分を成長させていけるかどうか、そうしたことを自覚しなくては結果を出すことはできないでしょう。
全体性に向かうということは、自然になっていくということです。
普通になっていくのです。
あればあったでいいけれど、無いなら無いなりにあるもので生活を考える。
どんな事柄も分け隔てなく普通に平等に扱えるようになっていかなくては、進化成長しているとはいえません。
好き嫌いはあっていいですし、必要なものを欲する気持ちは自然なものです。
しかし、それが執着や固定化にまでなると、おかしくなってしまいます。
なにか特別なエサを吊るされて「これが無くては困る」「いま手に入れておかないと損をする」と特別視をくすぐられると、依存心を全開にさせられてしまいます。
無意識に自らの歪みをあぶり出された時に、その歪みに気付けるかどうか試されることもあります。
あぶり出すという言い方はネガティヴな印象をもつかもしれませんが、消えていく姿がわかっていれば、それもそういう思いになることはないはずです。
うろたえて人のせいにすることもありますが、隠れていた自分の課題をわかりやすくしてもらえるならば、それは有難いことなのです。
平常心をわかっていないと、その気づきすら得られないでしょう。
今までなにを学んできたのか後で後悔することがないよう、ご自身のエゴのチェックを今この時、怠らないように過ごされるといいと思います。
それができていれば本当に役に立つものが身につき、本当に大変な時にその意味がわかるのではないでしょうか。
また、これからの時代についても考えておくといいと思います。
これまでは因果応報が正しく使われず、やったことがキチンと返ってきていませんでした。
不平等な世の中になっていました。
それが、歪みが減り因果応報が早くなるといわれている今、ウソやごまかしはできなくなってきて平等な世の中をこれから作っていこうとしています。
新しい時代をつくる前に、これまで溜め込んだものを解消しなくてはいけません。
誰が解消するのでしょうか?
ディセンションする人たちが解消するわけではないのです。
解消できないからこそディセンションしていきます。
みなが平等である以上、肉体をもって生きている私たちに負荷は均等に割り当てられると私は考えています。
そこで抱えているカルマの量に応じて加算減算され、負荷を解消しながらたくましくなり、同じ負荷が来ても生きていけるような人は20年後に生きているでしょう。
負荷を解消できず、考え方の歪みからさらにカルマを増やした人は、その重みに耐えられず潰れていきます。
時代の先駆けとなる人たちは、率先してそうした負荷を真っ先に負うことになると思っています。
その時に平常心を保ちながらエゴを薄くしてカルマを解消する、ということがスムーズにできればいいのですが、なにかをあてにしてそうした自分のやるべきことができないまま負荷を負うと、平常心を保てず思わぬカルマを増やしてしまうかもしれません。
先延ばしにされているいま、できるうちにできることをやっておくことでカルマを減らせるならば、これまでも繰り返し言ってきましたが、やれることはやっておいたほうがいいと思います。