今回の内容は取り組み方として大事なことになるので、なるべく簡単に書きたいと思うのですがまだ簡潔にまとめられていません。
今はできる範囲で理解に努めるようにしていただければと思います。
最近感じていることですが、これまでそれぞれ取り組んできた方たちの結果がでてきているような気がしていますので、徐々に実感できる方もいるでしょうからあきらめずに引き続き頑張っていただければと思います。
成長という方向性を出して生きていく場合、これまでも何度か書いたと思うのですが、エゴを薄くする必要があります。
エゴは不完全ですので、不完全なエゴでエゴの不完全さをチェックしたとしてもあまり意味をなしません。
エゴを薄くする場合、方向性をださないままにそれに取り組んだとしても、薄まった空きスペースはすぐに新たなエゴに取って代わられることになるからです。
全体性の働きは変化し続けることで完璧であろうとしています。
この場合の「変化する」は、歪みをとったり減らしたりすることです。
エゴの歪みはもちろん、カルマを減らそうと思ったら、カルマも歪みですから全体性を使えばいいということになります。
全体性に方向性を向けることにより、より歪みの少ない上位の意識でチェックすることができ、エゴを薄くすることができます。
そのために、エゴを越えた「上位の意識」「全体性」があるんだ、ということをまず信じる必要があります。
エゴで全体性をきちんとわかるものではありませんが、それでも因果応報を使い全体性を無意識から浮かび上がらせて視野に入れる(具現化、意識化)ことにより、それを使えるようにしていきます。
なぜ「全体性があるんだ」と信じる必要があるかというと、陰に隠れているもの、視野に入らないものは使ったりコントロールすることができないからです。
エゴが好き勝手やるのも、無意識という陰に隠れているからできることなのです。
ですから、「全体性がある」とつよく思い意識化し、それを使えるようにしてエゴを薄くしていきます。
そうした方向性をだして取り組んだときに初めてエゴはきちんと薄まっていきます。
いろいろな説明をこれまでもしてきていますが、全体性を踏まえないで言葉だけ見ても、これまでの歪みの多い世界の物の見方になってしまいます。
新たな方向性を打ち出していますので、これまで書き連ねてきた私のブログの内容のつながりを通して考えるようにしてみてください。
前も書きましたが、エゴでやっていることですので、間違いや言葉が足りないこともありますが、つながりをおろそかにしては見えてくることはありませんのでご注意いただければと思います。
「全体性を使う」というのは、気づきやインスピレーションとよばれるものを使うということです。
方向性を全体性に向けないまま得られる気づきやインスピレーションは、全体性以外のものはエゴに方向性を向けることになりますので、因果応報の結果として「歪みがより少ない」とはいえず、これが取って代わられると表現したものになります。
全体性に向けた取り組みの結果として受け取ったインスピレーションであっても、不完全な私たちはそのすべてをキャッチできませんし、見えない世界が主体ではなく肉体をもって生きている私たちがあくまで主体ですから、その肉体でやるべきことをちゃんと残す意味でも答えがそのまま来ているわけではないのです。
そうして受け取ったものは断片的なヒントや一部というフォローですから、成長を遂げるためにはエゴ主体で経験や学びを通してそれをつなぎ合わせて答えを導く必要があります。
全体性は変化し続けることで完璧であろうとしているとしたならば、私たちは変化や動くことによってその一部として働けることになります。
肉体をもって動けるということは、動く必要があるからそうなっていると考えればいいのです。
やることをやらなければ結果はでませんので、全体性に方向性を向けて行動に移していくことが、本来の人の生きる基本的な姿勢として求められているのだと思います。