本日いらしてくださった方とお話をしていたところ、先日のブログ「例え話」がなんの例えなのか伝わっていませんでした。
また、妻からも「私には関係のない話だと思ったから・・・」、という発言が飛び出し、私が驚いてしまいました。
補足として書いておきます。
簡単に言えば、借金とはカルマのことです。
表現として適切ではありませんでしたが、怖い人とは上位意識にあたります。
一ヶ月という日数にあまり意味はありませんでしたが、話の中ではカルマが自分に返ってくるタイミングをさします。
100万円というのは相当少なく見積もっての例えで、桁が一桁から二桁、もしくはそれ以上と思っていただいて差し支えない方もいると思います。
平穏無事に過ごせているから、カルマがもう解消されてしまって残っていないかもしれないじゃないか、と考える方もいるかもしれません。
しかし、基本的にカルマがすべて解消されたら、よほどの例外でない限り覚醒しています。
いまの時点で覚醒をしていないのであれば、それはまだカルマが残っているということになります。
ということは、それはまだカルマの解消をやりきっていないということですし、いずれなんらかの形で返ってくる、ということになります。
ですから、あの例えは特定の誰かではなく、自分も含めたほぼ全員にあてはまるお話ということを考えていただきたかったのです。
日常生活をある程度人並みに過ごせるようになって、その上で更に成長を求めた時に精神世界の探求をするといいと思います。
しかし、私もそうでしたが、日常生活で思うようにいかないことに目を向けないために、逃げで精神世界に足を踏み入れると、綺麗事が多くなりますし、知ったかぶってわかったふり、悟ったふり、賢そうなふりをついしてしまいます。
自分のことも満足にできていないのに、正しいことや大事なことが満足にわからない状態で、まわりに正論を説こうとすれば、自ずとうわべだけの話になるのは当たり前のことではないでしょうか。
正論を説こうとしても、エゴの判断では大抵どこか間違った答えになります。
間違ったことを伝えて、人がそれを正しいと信じて結果的に生きづらくなった場合、因果応報で自分に返ってくることはどんなことでしょうか。
円満な人付き合い、生活に困らない程度の生活資金、やりがいをもって取り組める仕事、社会で後ろ指さされない生き方、こうした事をクリアしないままでいると、どこかで劣等感になっていることがあります。
そしてそのまま、精神世界の理屈を振りかざして劣等感やその原因を無いものにしようとしてしまうと、方向性が全肯定からはかけ離れていくことになります。
人より優れる必要はありませんが、人並みにできて人目が気にならなくなれば、それなりに劣等感を克服したことにはなります。
そうすると、特別視も減るため、カルマも増えづらくなるでしょう。
私たちは、「対等」「平等」に考えられるようになっていくことで、全肯定に近づいていきます。
カルマを積む、とは、結果的に生きづらさが増すことをすることです。
やったことが返ってくるので、人が生きづらくなるようなことをすれば、因果応報で自分も生きづらくなるのは理屈どおりです。
一方、徳を積む、というのは、結果的に生きやすが増すことをする、と考えれば分かりやすいでしょうか。
(自分も含めた)人を生きづらくさせるような考え方を改めて、生きやすくなるような考え方に近づけていくことが、エゴを薄くするということになると思います。
そのやり方として、エゴをチェックし、エゴをコントロールすることを、ここではお伝えしています。
(詳しくは、資料や過去のブログでご確認ください。)
甘やかすことは、結果的に自立から遠ざけて生きづらくさせることもあります。
お節介はその人が気づく力や主体性を育む機会を損なうことがあり、徳を積むようでカルマを積んでしまいますから、注意が必要です。
また、生きやすさを求めたものの、よく理解できずに取り組んだために、取り組み方が過剰になったり偏ることがあって、結果的に生きづらくなってしまっては、限られた時間内での取り組み方としては、効率がいいとはいえません。
「無理をする」というのは、できることやできそうなことに対して、一定以上の取り組みをすることですので、思うような結果になる可能性もあり、これは本人がやりたくてやるならそれでいいのです。
しかし、「無茶をする」というのは、できないことをやろうとすることなので、結果は「できなかった」にしかならず、葛藤をうんでカルマとなります。
深刻にならずに済むうちに、早めに少しずつでも解消できることがあれば、地道に取り組まれるといいと思います。
いろいろと今のうちに考えて、できることから早めに行動に移していただければ、後悔の少ない生き方になるのではないでしょうか。