祈りとは
『日常生活と切り離した取り組みに生きることではない』
と考えています。
資料にも載せていますが、
『日常生活をきちんと生きてこその祈り』
だと考えているからです。
気を付けたいのは、
『目の前の生活をおろそかにして、特別な体験ばかりを求めない』
ということです。
(※この場合の「おろそかにする」とは、日常生活よりも特別な取り組みに価値がある、と考えて行動することです。)
日常生活をきちんと生きていれば、当たり前のことが当たり前にできている、といえます。
当たり前のことが当たり前にできるのは、正しい理屈で考えて行動できるからです。
間違った理屈で正しいことはできません。
正しい理屈で考えられるということは、正しくものごとが見えているからであり、もちろん程度や段階はありますが、それはありのままを認められているからです。
ですから、日常生活をきちんと生きられている、ということは、ある程度ありのままを認められていることになります。
また、日常生活をきちんと生きられていれば、エゴが薄いといえます。
日常生活をきちんと生きようとすることが、エゴを薄くすることであり、全体と調和していくのですから、意識レベルを上げることになります。
意識レベルが上がることで、レベルに応じた変化の準備が整っていきます。
そうしたことがわからないまま、特別な体験を求め、積み重ねると、他者との関係性における対等・平等という考え方から、遠ざかってしまいます。
多少でも理解できていれば、ある程度の段階までは到達できます。
しかし、そこから先を目指せる可能性があったとしても、理解が足りなければ正しい取り組みができないため、どこかで修正をかけないとあるところから先にはすすむことができません。
遠ざかるというのは目指す全肯定から離れていくということであり、特別な体験がかえって仇となり、より一層自らを正当化して、ますます自分自身に対する特別視を増強してしまうことがあるからです。
「全肯定を目指し、上位意識とのつながりの中でエゴを薄くし、カルマを解消すること」
これが基本だと、いまの私は考えます。
特別なことは、なにかを否定することがあります。
全肯定を目指すのであれば、否定を減らすことです。
それ相応のことができるようになって、それに見合った境涯に到達していきます。
それ相応のことができていなければ、そういう境涯には到達しません。
因果応報はここでも働いています。
ありのままを認めることに少しでも近づけるよう、「つもり」になっていないか、エゴをチェックしてみてください。
また、祈りを特別なものにして自分をおろそかにしていないか、考えていただきたいと思います。